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今日、皆さんにお話しさせていただけることは光栄ですし、大変うれしく思います。ここ1年ほど、毎週この教会に座ってみ言葉によって養われ、皆さんとの交わりに大変恵まれています。み言葉を語るのは確かに光栄ではありますが、恐れ多いことでもあります。小川先生ほどの説教を絶対期待しないでほしいです。
王なるキリスト主日
この国に住んでいるすべての人の中で、今日ここに集っている皆さん、あるいはオンラインで参加していらっしゃる皆さんは最も幸いです。皆さんとてもラッキーです。なぜかというと、皆さんは王の王をご存じですから。
教会の暦では、新しい年は実は1月1日ではなく、来週に入る降臨節(待降節)から始まります。そして、降臨節の前の主日は伝統的に「王なるキリスト主日」と呼ばれます。それは、王室の行列で王さまがいちばん最後にやってくると同じように、教会の一年の最後の日曜日にこの主日がやってきます。
主イエス・キリストのことを王と呼ぶのは、イエスご自身がご自分のことをそうおっしゃったからです。総督ピラトがイエスに「お前がユダヤ人の王なのか」と尋ねたとき、イエスは「わたしの国(王国)は、この世には属していない」と答えられました(ヨハネ18:33、36)。(ギリシャ語では「国」と「王国」は同じ言葉です。)つまり、この世のものではないが、主イエスには王国があるということです。
また、先ほどわたしたちが聞いたマタイによる福音書の中でも、ご自分について主イエスの話し方に注目してください。
「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。」(マタイ25:31)
イエスの母国語であるアラム語では、「人の子」という言葉は、武士が「拙者は」と言うと同じように、自分のことを指す言葉でした。だから主イエスは、ご自身が栄光のうち来られ、王座に着くとき、という話をしておられるのです。続けて、ご自分のことをはっきり「王」とおっしゃいます。
「そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。』」(マタイ25:34)
なので、主イエスはご自分のことを王とおっしゃるから、わたしたちもそう呼びます。しかし、王って、実際にどういう存在なのでしょうか。
わたしは天皇陛下に直接お会いしたことはないけれど、日の丸を振る大勢の人の中で遠く離れた皇族の皆さんが立っておられるのを見たことはあります。でも現代社会では、天皇とか王さまとか、少しよそよそしい、国の一致を表すちょっとあいまいな象徴としてしか、あまり馴染みがないと思います。しかし、歴史の中では、ほとんどの国が何らかの王や君主に支配されたものです。
イスラエルもそうでした。旧約聖書に出てくる王たちは、単に国を代表する象徴ではなく、民に対して最高の権威を持っていました。国の保安を守るために命令を出したり、兵士たちに戦いを命じたりしました。イスラエルの最も有名な王、ダビデ王は、神殿建設の準備を命じ、彼が亡くなってから王座を引き継いだ息子ソロモンも、神殿の施工を命じたのです。数万人を巻き込むような大規模のプロジェクトでした。
そして、旧約聖書では、王は同時に裁き主でもありました。「ダビデは王として全イスラエルを支配し、その民すべてのために裁きと恵みの業を行った」と聖書に書かれています(歴代誌上18:14)。ソロモン王の知恵あふれる裁きも有名な話です。
キリストは裁き主
今日のたとえ話でも、主イエスはわたしたちを裁く権利を持つと主張されています。
「そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」(マタイ25:31-33)
まず注意していただきたいのは、主イエスはイスラエルだけを裁く権利についておっしゃっているわけではない、ということです。確かに、主はイスラエルの王でもあります。十字架に掛かった罪状書きを覚えているでしょうか。「ユダヤ人の王」と3か国語で書いてあった。それは、この人は十字架刑に値する政治犯だ、という意味でした。しかし、皮肉なことで、実際は政治犯ではなくて真実でした。主イエスは第二のダビデであり、イスラエルの全きの王です。でも、主の王権はそれをはるかに超えています。「すべての国の民がその前に集められる...」
もちろん、すべての人はイエスが主であり王であると認めているわけではありません。日本のほとんどの方がそれを認めていません。でもそれは、キリストはすべての人々の上におられる主である事実を変えるものではない。聖パウロはフィリピの信徒への手紙でこう書いています。
「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスのみ名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ 2:9-11)。
主イエスにはすべての人を裁く権利があります。しかし、どのようにお裁きになるのでしょうか。どのような基準をもって裁かれるでしょうか。
「そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」(マタイ25:34-40)
「この最も小さい者」とは、特に教会、あるいは地元のコミュニティで困っている人を意味する言葉です。王なるキリストの裁きは、わたしたちの愛を見て決定されるということです。主は、隣人を愛すること、隣人どころか、敵さえ愛することを求めておられます。飢えている人に食べ物を与え、見知らぬ人を歓迎し、裸の人に服を着せ、病気の人や囚人を訪問すること、つまり、目の前のすべての人を自分の思いやりとケアの対象と見て、行動することを求めておられるのです。
ここで生じる問題は、その基準がわたしにとってどうなるかということです。皆さんもそうです。わたしたちは皆、罪人なのです。そして罪は、王が命じるように隣人を愛することを妨げる力があります。わたしたちは心の中でうらみや軽蔑を抱いたり、時には悪意さえ抱いたりするのです。それを行動に移すこともあります。人が目の前に苦しんでいても、見て見ぬふりをすることもあります。たとえ機会が与えられても、困っている人を助けたり支えたりしそこなってしまうこともしばしばあります。
だからこそ、たとえ話の後半は、とても恐ろしく感じます。
「それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。』」(マタイ25:41-45)
そして同じように、いろいろの場面で困った人を助けなかったから、王を助けてくれなったことになる、という話。
このたとえ話は、神の裁きを表すおそらく最も有名なものでしょう。「最後の審判」をテーマにしたたくさんの偉大な芸術作品のインスピレーションとなっています。そういった絵では、主イエスは必ず真ん中におられ、その右には祝福された人たちがいて、天国に迎えられています。そして、主の左手では、悪魔たちが呪われた人たちを永遠の懲罰に引きずり込んでいます。「悪魔とその手下のために用意してある永遠の火」に。
このたとえ話の背景には、旧約聖書の話があります。エゼキエルに与えられた預言の中で、神はご自分が羊と山羊の羊飼いとなる、そして羊と山羊の裁き主ともなるとおっしゃいました。
「わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる… お前たち、わたしの群れよ。主なる神はこう言われる。わたしは羊と羊、羊と山羊との間を裁く。」(エゼキエル書 34:15, 17)
主イエスはご自分にあってこの預言が成就しているとおっしゃっておられるわけです。王であり、裁き主でもある、と。なお、今日のたとえ話では、王の裁きが不公平とか、そういう気配はまったくありません。羊は、隣人のお世話をしながら生涯を送ってきた人たちを表します。一緒になって日常の小さな愛の業に励むことで、み国、すなわち王から見た理想の社会に対する王のビジョンを実現したのです。逆に、ヤギは自己本位、自己中心で、王の言うことを聞いてこなかった人たちを表します。どうせ王に気づかれないだろうと思ってしまい、隣人のお世話をして来なかった人たちです。
ですから、王の裁きは正しいものです。神の裁きは常に正しい。わたしたちは、主イエスが求めておられるように隣人を愛していたら、祝福され、永遠のみ国を受け継ぐということ。そうしなかったら、呪われ、永遠に離され、キリストの光がない行く先に送り込まれる、ということ。問題は、わたしたちにとってどちらになるのかということです。右に置かれるか。それとも左に置かれるか。恵まれる方。それとも呪われる方。
神の逆さまな裁き
そういうわけで、このたとえ話は恐ろしく感じるかもしれません。なぜなら、皆さんのことは分かりませんが、正直に言うと、わたしは左の方に置かれるはずだろうと思うからです。主イエスがお求めになるように、隣人を愛して来なかったことは多々あるのです。
ところが、このあと何が起こるかに注目するのは、極めて大切なことです。確かに、裁き主の右か左のどちらかに置かれ、天国か地獄のどちらかに向かうと考えると、非常に不快なことです。しかし、主イエスがこのたとえ話を語られたすぐ後に起こることを見逃してしまうと、たとえ話を単なる道徳の話に落とし込んでしまう。それは良い知らせにはなりません。福音にはなりません。
マタイの福音書の流れでは、羊と山羊のたとえ話の直後、受難物語の幕が開くのです。これまで何章にわたり主イエスは「裁き」という大きなテーマについて話して来られた。しかし、次に来るのは、実際の裁きの行為です。すなわち、主イエスの裏切り、逮捕、有罪判決、拷問、そして十字架刑という一連の出来事です。
主イエスが裁きについて語ってこられたすべての意味を解き明かすカギとなるのは、そのご受難です。そしてその驚くべき点は、実際に裁かれるのは羊でも山羊でもはなく、羊飼いであるということです。王なるキリストは、ご自分に忠誠を尽くすはずだった人々によって裁かれたのです。ユダは、裏切るぐらいイエスを失敗者だと裁きました。その他の弟子たちは、イエスがローマと戦ってくれる反逆者として判断して、暴力でも守ろうとしました。大祭司たちはイエスを自分たちの権力と宗教に対する脅威だと裁きました。ローマは、イエスを公に抹殺すべき政治犯だと裁きました。
神の裁きは人間の裁きとは全然違います。逆さまです。神の裁きは、み子ご自身に下りました。み子のみが罪のない方、み子にあってのみ隣人愛が完全に完成したにも拘わらず、人類に対する正しい裁きと懲罰がみ子に下りました。聖パウロはコリントの教会にこう書いています。
「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために[罪人]となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(Ⅱコリント5:21)
栄光に満ちた、不思議な王
ですから、わたしたちが知って、仕えるのは、不思議な王です。他のどの王や皇帝ともまったく違う王です。
普通の王たちは豪華で贅沢な暮らしをします。ソロモン王はおそらく史上で最も金持ちだったとも言われています。彼についてイエスが「栄華を極めたソロモン」(マタイ 6:29)と言われたぐらい、最高級の住まい・服で生活していた王です。
逆に主イエスがお生まれになったのは、動物を保護する家畜小屋。汚い、臭い、寒い場所でした。貧しい家庭にお生まれになりました。お育ちになったのも、賑やかな大都市の華やかさから遠く離れた、辺ぴな田舎にある、人口100人ぐらいの小さな村、ナザレでした。
主イエスは、一度も学校教育を受けることはありませんでした。義理のお父さんヨセフと同じく、大工として30歳まで働かれました。当時の大工とは、今の日本の工事現場のお兄さんに近い職でした。
主イエスの公の働きはわずか3年と短く、その間、一度もその地域を離れることはなく、大都市に行くことも、宮殿の柔らかい布団で眠ることもありませんでした。主の唯一の持ち物は縫い目のない下着でした(それも十字架のときに奪われました)。弟子たち、おそらく百人ぐらいの男女の弟子たちを集められたが、イエスさまと同じくそのほとんどは教育を受けず、貧しい人たちでした。
栄光に満ちた、不思議な最終幕
また、主の死も、普通の王たちとはまったく違います。普通の王たちは他の人に戦いを命じるものですが、主イエスはご自身がわたしたちのために戦いに行かれました。その戦場は十字架でした。
ローマの十字架は、世界で最も王さまがいそうにない場所です。十字架ほど恥ずべきもの、苦しいものはなかった。けれども、まさに十字架にはまことの王がおられました。王がわたしたちの救いのために戦った場所は、その十字架の上でした。剣を手にして戦われたわけではない。流された血は、主ご自身の血だけでした。むしろ、主の武器は、その御父への完全な従順と、わたしたちへの愛でした。十字架の上には、民のために恥と懲罰と死を引き受けれた王の姿が見えます。十字架の上では王が、人類のすべての迷い、すべての暴力、すべての裏切りと背きを引き受けられたのです。王なるキリストは、わたしたちに代わって裁かれた裁き主です。
その偉大な愛の業によって、完全な敗北に見えた状況から、王が勝利をつかまれました。主イエスがはりつけにされた十字架こそ、その王座となったのです。
そして今、玉座となった十字架から流れ出る愛には、わたしたちを救う力、光の王国へと移す力があります。聖パウロはコロサイの教会にこう書いています。
「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛するみ子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、このみ子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」(コロサイ1:13-14)
わたしたちは闇、罪、死の力に囚われていましたが、王がわたしたちを救い、みもとに連れ戻すためにご自分の命をささげられたのです。
なぜ主イエスは十字架を引き受けられたのか。それは、民をとことん愛する王だからです。わたしたちが離れるのではなく、共にいることを望んでおられたからです。わたしたちを友と呼びたかったからです。
19世紀歴史家フィリップ・シャッフはこの不思議な王について次のように書きました。
「ナザレのイエスは、金も武器もなく、アレクサンドロス大王、シーザー、モハメッド、ナポレオンよりも数億の人々を征服なさいました。技術も教育もなく、すべての哲学者や学者を一緒にしても、それよりも人間のことと神のことを解き明かされました。弁論術の訓練を受けることなく、後にも先にも例のない命の言葉を語り、どんな演説者や詩人の力も及ばない影響を与えられました。ご自分の手で一文字も書き記すことなく、古代・近代の大勢の偉人全員よりも数多くの筆を動かし、数多くの説教、演説、学問的な文書、芸術作品、この上なくすばらしい曲にテーマを与えておられます。馬小屋に生まれ、犯罪者として十字架にはりつけにされましたが、今や文明の運命を決し、世界の三人に一人の心を治めておられます。地上、これほど柔和で、謙虚で、見えを張らない者でありながらも、時代や国、階級を越え、ありとあらゆる人々にこれほど驚くべき影響を及ぼした者は、決してほかにないでしょう。」
王なるキリストに従ってまいりましょう
世界の3人に1人がこの不思議な王を愛しているということです。でも、王を愛するって、具体的に何を意味するのか。
- 聞き従うこと
まず、王に聞き従うことではないでしょうか。もし、天皇や首相大臣から手紙が届いたら、その一つ一つを注意深く読むではないでしょうか。わたしたちの王はお言葉を与えてくださっています。聖書がそのお言葉です。王を愛してるなら、心を込めて聖書を読み、またそれに沿って生きるのは当たり前のことです。キリストに人生をゆだねる、というこです。お金の使い方、体の使い方、力の使い方、言葉の使い方すべて。人生のボスは自分ではなくイエスさまだと受け入れるのです。
- 他の人をみ国に招くこと
また、もし主イエスを王として愛するなら、他の人たちをその素晴らしい国に招くでしょう。主はそれを命じられました。「行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」(マタイ 28:19-20)
周りの人は自分がクリスチャンであることを知っているでしょうか。先日、夕方散歩をしていると、あるおじいさんが近所のおばあさんにさり気なく「僕はクリスチャンです、ルーテル教会で洗礼を受けました」と言いました。ごく自然な一言でした。さり気なく周りの人にクリスチャンであることを知ってもらったら、もうしかしたら神さまがその関係を用いて、より多くの人を祝福の輪に導くかもしれません。
- その王国を現わすこと
最後に、もし主イエスを王として愛するなら、その王国を現わし、その働きを行うでしょう。王は、この世における王国の大使となり、王を代表する権限を与えてくださっているのです。
今日のたとえ話が、その王国はどのようなものかを示しています。ちなみに、この聖書箇所はマザー・テレサのいちばんのお気に入りのものでした。ここで主イエスが思い描いておられるみ国、理想社会の姿を垣間見ることができるからです。
キリスト教が史上最大の慈善活動団体であることをご存知でしょうか。世界初の病院を建てたのはクリスチャンです。教会はそれ以降も、他のどの組織よりも多くの病院や孤児院などを建てて、より多くの人に食事を与えたり、住まいのない人収容したり、より多くの囚人の世話をしたりしてきました。2000年間ずっと。看護職もキリスト教から生まれた職です。それは、クリスチャンが他の誰よりもいい人たちだからというわけではありません。むしろ、わたしたちへの愛ゆえに、救うために命ささげてくださった王を知っているからです。キリストのとてつもなく大きな愛が、わたしたちの小さな愛の業を可能にするのです。しかし、これまでのように、わたしたちの小さな愛の業が主のとてつもなく大きな愛と結びついたら、世界を変える力になれるのです。
わたしたちは、ほかのどの王や皇帝やリーダーよりも計り知れないほど偉大な王の者です。なんと幸いでしょう。その王の驚くべき恵みによってわたしたちは父なる神に祝福され、天地創造の時から用意されている国を受け継ぐ者にならせていただいています。その不思議な王の友として、その栄光を現し、忠実な僕として生きましょう。祈りましょう。
降臨節前主日(王なるキリスト主日)
永遠にいます全能の神よ、あなたのみ旨は、王の王、主の主である、愛するみ子にあって、あらゆるものを回復されることにあります。どうか罪によって分裂し束縛されているこの世の人びとが、み恵みにより、み子の最も慈しみ深い支配のもとで、解放され、また、ともに集められますように、父と聖霊とともに一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによってお願いいたします。 アーメン



